阪神・淡路大震災 私の体験記 2
2008/01/19
午前8時。 電気がないのでどこでどうなっているか情報が判らず、息子(現当社専務)も会社に実習に行くため、ホンダクリオ神戸に電話するが連絡がつかず、私もホンダクリオ神戸の社長に連絡するが通じませんでした。(後で判ったのだが有野店、当社、ロイヤルモータースの向かい、以外すべての店が被害を受けていた。 そのためホンダ学園卒業後、息子は当社の向かい有野店に4年間在籍した。 )
午前9時。 隣の吉川(仮名)さんが私の家に来て長田区にいる長男から連絡があり三男の秀也君(仮名)が灘区に住んでいて「彼の住んでいるアパートが倒壊しているが後で連絡するから家に待機するように。」と指示があったと言ってきた。
秀也君は娘と同学年で娘の大学の同級生の啓子(仮名)さんと偶然付き合っていて一週間前に吉川さん宅で婚約祝いをしたところでした。
会社の始業時間がきているので会社に行くと三人出社していたが「すごかったなー」と話しながら後かたづけし幸い本社(有野)のライフラインは無事だったのでテレビでニュースを見るとヘリコプターからの情報だが山(六甲山)の向こう側はもっとひどい事になっているらしい。
後で判った事だが出社していないT君は家が全壊して、数日後仮設住宅に入居した。
半年前(平成6年7月)神戸市灘区岩屋、国道2号線と国道43号線の交差するところに「オートプラッツ神戸」中古車合同展示場を出店(他タックス店2社も出店)し車も売れていたので12月に1名増員し「1月からがんばろう」と言っていたところだったが、そのオートプッラツ神戸の店長が長田区に住んでいて全く連絡がつかない。 この事も後で判ったことだが、彼の家は全壊し2階に寝ていた奥さんとお子さんはゴルフクラブで壁を3つ壊し1階が潰れていたので道路に降りたがすぐ潰れた家が道路に横たわっていたので何件か乗り越えて非難したそうです。 直後の火事で1階に寝ていたおばあさんは助けることが出来なかった。 彼の周辺も同じような状況だったので悲しい場面や辛いことを経験したのでしょう。 2週間後に連絡がつき本人は無事であったが近くの学校に避難しているとのことで、一ヵ月後会社に出社したが、あの底抜けに明るい性格の彼が以後2ヶ月位全くの無口になっていた。 連絡がつくまで毎日、テレビで彼の名前(死亡名簿)が出ないことを祈りながら見ていました。
午前9時。 隣の吉川(仮名)さんが私の家に来て長田区にいる長男から連絡があり三男の秀也君(仮名)が灘区に住んでいて「彼の住んでいるアパートが倒壊しているが後で連絡するから家に待機するように。」と指示があったと言ってきた。
秀也君は娘と同学年で娘の大学の同級生の啓子(仮名)さんと偶然付き合っていて一週間前に吉川さん宅で婚約祝いをしたところでした。
会社の始業時間がきているので会社に行くと三人出社していたが「すごかったなー」と話しながら後かたづけし幸い本社(有野)のライフラインは無事だったのでテレビでニュースを見るとヘリコプターからの情報だが山(六甲山)の向こう側はもっとひどい事になっているらしい。
後で判った事だが出社していないT君は家が全壊して、数日後仮設住宅に入居した。
半年前(平成6年7月)神戸市灘区岩屋、国道2号線と国道43号線の交差するところに「オートプラッツ神戸」中古車合同展示場を出店(他タックス店2社も出店)し車も売れていたので12月に1名増員し「1月からがんばろう」と言っていたところだったが、そのオートプッラツ神戸の店長が長田区に住んでいて全く連絡がつかない。 この事も後で判ったことだが、彼の家は全壊し2階に寝ていた奥さんとお子さんはゴルフクラブで壁を3つ壊し1階が潰れていたので道路に降りたがすぐ潰れた家が道路に横たわっていたので何件か乗り越えて非難したそうです。 直後の火事で1階に寝ていたおばあさんは助けることが出来なかった。 彼の周辺も同じような状況だったので悲しい場面や辛いことを経験したのでしょう。 2週間後に連絡がつき本人は無事であったが近くの学校に避難しているとのことで、一ヵ月後会社に出社したが、あの底抜けに明るい性格の彼が以後2ヶ月位全くの無口になっていた。 連絡がつくまで毎日、テレビで彼の名前(死亡名簿)が出ないことを祈りながら見ていました。