お店のリアルな情報をキャッチ!STAFF BLOG

 広辞苑に「芦屋」を平安時代の歌人在原行平(ありわらのゆきひら)と愛人二人の伝説の舞台とする誤った記述があると新聞に載っていました。
ロイヤルモータースニュース14年春号で掲載した月見橋(松風・村雨)の中の須磨の伝説として掲載しています。

広辞苑が50年も間違って掲載している事を知りませんでした。 残念 
おそらく行平を、芦屋に別邸があったとされ地名にもなっている弟業平(なりひら)と間違えたらしい。

在原行平・業平・・・・平安時代に活躍した歌人の兄弟。 父は平城天皇の皇子阿保親王。 臣籍降下して在原氏を名乗る。 兄の行平は紫式部の「源氏物語」の主人公光源氏のモデルといわれる。 最古の歌合「在民部卿家歌合(ざいみんぶきょうけうたあわせ)を主催した。 弟業平は六歌仙、三十六歌仙の一人。 容姿端麗で後に美男の代名詞にもなった。 「伊勢物語」では、業平を思わせる主人公が、都から芦屋の別荘に訪ねてきた行平と布引の滝へ出掛ける場面もある。 
身分も高く金持ちで、教養もあり,しかもイケメン兄弟、紫式部も清少納言も「参りました。 」 と言うところか?

コメント : 0件 | トラックバック : 0件

今月最後の週末。

1ヶ月が速い

どうもどうも藤本です。

今、子安店は表の看板や建物の塗り替え等で

だいぶご不便掛けてると思います。

もう少々でリニューアルとなる予定です。



話は変わって。。。

昨日ニュースで嫌な情報を・・・

毎年この時期に来るアレですよ怒

あれ!

そうなんです。

花粉が飛んでくる時期なんすよ~~~花チューリップ花チューリップ

何か去年よりもパワーアップダッシュ

らしいですよ。


今のうちに予防接種的なものをやっとこうかなぁ~~

鼻かみすぎで鼻の下痛くなるのやだしなぁ~


そんな花粉も気にならないくらい。。。

忙しくなって欲しいものです



今年の3月は忙しくなって欲しい

いや!

毎月☆

いやいや♪

毎日が♪♪


藤本でした。

コメント : 0件 | トラックバック : (x)

インターネットの動画サイトでどこの国かわからないんですが車のパワーチェック

(シャーシダイナモ)の様子を収めたものを発見して片っ端か見てるんですが、

外人はすげぇ~~~

普段は安全運転藤本です。

僕の乗ってる2.5の70スープラも何台かあったんですが、やれ700馬力だ

こっちは800馬力だと半端じゃないんです!

でも。。。

いい歳して(30も半ば越え)

ぞくぞくするんですよね~~

あのフルブーストの時の音と

ウエストゲートの開く音(ちょっとマニアックですね)

う~~~乗ってみたい

せめて600馬力いや500馬力ぐらい欲しい

あ~~~

当たんないかな~ミニロト(笑

まず、パワーあげる前に

アッチコッチと直すとこが一杯あるんで(泣

さて




今日はうちの工場長と僕のお客さんとで

夜の街へ繰り出そうと思います

二日酔いにならない程度に。。。

まる~そろそろ終わりますよ~

以上藤本でした。


コメント : 0件 | トラックバック : (x)

 西宮の実家には7日後にやっと行けました。 
盤滝トンネルが一部崩壊しているので、船坂峠を迂回していったのですが、大渋滞で40分で着くところ3時間かかりました。 途中、岡山の従兄弟(伯母さんの息子)とすれ違い、といっても車が動かないので立ち話で、彼も心配で実家の様子を見にきたらしいのです。 
 私の実家は大丈夫でしたが、近くの伯母さんの家が全壊し実家に非難、甲東園の従姉妹の家も全壊し50mはなれた親戚の家に、それぞれ非難していました。 
 食事は近くの中学校にパンをもらいにいってるみたいでした。  とりあえず、けがもなく、命が助かってよかったと言ってました。
 行くときにいつもタックス兵庫の会議でお世話になっている中華料理の花咲く街角のママに特別にチャーハンを作ってもらい、持って行くと伯母さん達が3時間もたってさめたチャーハンをこんなあたたかい食べ物久しぶりと言って涙ぐんで食べるのです。
 お金があっても店が開いてないので一週間、朝、昼、晩 近くの中学校に行ってパンをもらって食べていたそうです。
 伯母さんは一階に寝ていたのですが幸い両側にタンスあって隙間に寝ていて助かったそうです。 父が様子を見に行くとまだ寝ていたそうです。
 一階から二階を覗くと天井の崩れたところから空がみえました。 無事だったのが奇跡です。
 甲東園の従姉妹が家に大事なもがあるので取りに行きたいと言うのでいしょに行くと彼女の家も家全体が30センチずれて二階に寝ていた彼女と一階に寝ていたお母さんとお互い声を掛け合って3時間後に脱出したそうです。 
 家の周りを指さしながらここも、あすこも埋まって亡くなったと説明していると、車の中に男性が鍵を掛けて外から奥さんがドアを叩いている。
 事情を聞くと四国からお父さんの様子を見に来て絶望して「死ぬ」と言っているらしい。 
 灘区でもネクタイをしたおじさんが渋滞で動かないのに、交通整理のまねをしているのを見かけたが気の弱い人や、優しい人達が精神がおかしくなったんだろう。 何とか話はしたが、こちらもそれどころでないので引き上げた。  

コメント : 0件 | トラックバック : 0件

 ☆17日のことはかなり鮮明に記憶していますが13年以上前の事であいまいなところもあり、記憶が無くなっているところもあると思います。 又、時間や日時が前後したり数字が多少間違っている事もあるとおもわれますが、おおよそのニュアンスをくみ取って下さい。
 ☆最初にも述べましたように出きるだけ客観的に事実のみを記して感情を抑えているつもりですが、多少のことはお許し下さい。
 ☆プライバシーの問題もあり述べることが出来ない部分もあります。

18日
 夜中じゅうサイレンが鳴りっぱなしと余震でよく眠れなかった。
 朝会社に着くと有馬街道(会社の前)を他府県ナンバーのパトカー、救急車、消防車がひっきりなしに走っています。
 阪神高速(大阪ー神戸間)、名神高速(西宮ー吹田間)、中国縦貫道(西宮ー吹田間)、が不通でJR、各私鉄も全て神戸、阪神間は不通になっていたため、神戸、阪神間に入る唯一の道になっていました。 
 そのため有馬街道が重要な道になり、17日はほとんど車両は走ってなかったのですが、43号線、2号線が不通になった為九州、中国地方や関東、北陸地方も全て有馬街道を通過して神戸、阪神間に入って行きました。 最初は緊急車両、救援物資を運ぶ自衛隊やボヤンテアの車両など、「一般車両の用事のない車は神戸市内、阪神間のに入るのを自粛しよう。」とキャンペーンしていたが通勤、復旧で大渋滞でした。
 三田方面の従業員は被害がすくなかったため、彼らに会社のことまかせて私は秀也君の葬儀の準備をした。 
 電話が無理なので公衆電話を利用した。 そのとき公衆電話のみいつも使えるのを知ったが最近、携帯電話が普及し当時より更に公衆電話が減ってきているのは問題だと思う。
 犠牲者が多いので葬儀は急がなければと19日の午前中とした。

コメント : 0件 | トラックバック : 0件

午後8時
 あと二つのお寺を回ったが、状況は同じで身元不明の遺体もあり無理と判断し彼のアパートに行くと、息子たちがいて、畳の遺体を指差して「秀也君や。」と言う。 先ほど奥さんや私たちが彼の顔を見たが今から考えると、なんとか生きてほしい願望と圧死とで違う顔に見えたらしい。
 私は吉川さんが意外に冷静なので安心した。
 息子たちがワゴン車に乗ってきているので家に運ぼうとしていると、役所の方らしい人が「検視をしなければならないので、高鷲小学校に運んで、 そして遺体は明日とりにきてほしい。」と言うので、学校へ行くと学校は真っ暗で、引っ切り無しに救急車が遺体を運び入れている。
 地震で階段が浮き上がったところを登って廊下に入り懐中電灯で教室を覗くと全ての机に、机ひとつに遺体ひとつがのっている。
 そして足になにかがあったて見ると壁を隔てて暗い中に着の身着のままで非難している人達がいてびっくりすると同時に胸が痛んだ。
 どうみても、食事が出きる状態ではない。
 偶然、検視官が来て検視をしていただいた。 死因は圧死で即死だそうだ。 検視が終わったので今連れて帰る許可をもらった。
 検視官が吉川さんに書類を渡し記入してと言うが書けない。 では確認のために住所、氏名、電話番号を尋ねるが全く出てこない。 
 家内が代わりに答えたが、冷静ではなく、あまりのショックのため、全く思考能力が無くなっていた。
午後11時
 吉川さんの家に秀也君を運び入れた。 そして知り合いの僧侶に葬儀屋さんを頼んだが来れる状態ではないらしい。 しかも棺桶がなく小さいのをひとつ確保してくれた。 しかも単独の葬儀はこれが最後で後は合同になるそうだ。 
 僕たちは家に帰ったが家内は吉川さんと一緒に葬儀屋さんが来れないので見よう見まねで体を拭き化粧をして寝かせてあげたらしい。
弟に礼を言おうと連絡するが無理だった。 後で判った事だが、その後、彼の近くのガスタンクに亀裂が入って、小学校に避難していたらしい。

コメント : 0件 | トラックバック : 0件

17日 午後2時
 秀也(仮名)君(吉川さんの三男)の住んでるアパートに弟(私の実弟)と引き返す。 
 そこで家内と吉川(奥さんで旦那さんはいない)さんが何回も呼ぶが応答がないとのこと。 弟もこの状態では、どちらにしてもリフトを使うのは難しいと判断、二階に登ったが余震が起き、2時災害に成りかねないと断念。 駐在さんが回ってきたので「なんとか助けてほしい。」と頼んだが何人閉じ込められているか調査に来たとの事で、今生存して助けを求めてる人を優先するので無理との返事。 
午後3時
 呆然としていると、急にお腹が空いてきた、皆、朝から何も食べていない、レストランも開いている状態でもなく、いったん家に帰ることにした。
 そこで息子と吉川さんの次男とすれ違ったらしい、彼らは、のこぎりと金槌をもって秀也君を助けに行った。
 家に帰るとガスと水道が出ないのでパンと冷蔵庫の中のものを食べたような気がします。 (水道とガスは二ヵ月後に回復した)
 テレビを見ていると息子から「秀也君が見つかった。」 と電話があり、すぐに彼のアパートに直行しました。
 後で事情を聞くと二階から彼のいそうなところをのこぎりで切りながら進んだら足が見えたのでなんとか出そうとしたが、無理だったので近くで救援活動をしている自衛隊の方に頼んで引き出してもらったそうだ。 余震の続くなかよくやったものと思います。 他の方々は十日後に出してもらったらしい。
 午後5時30分
 余震の続くなか懐中電灯を点けて倒壊している町中に人がいないか確認しながら彼のアパートに着くと、真っ暗で誰もいない一枚の畳の上に遺体があり、吉川さんに顔を確認してもらったら、「秀也君でない。」と言い息子たちもいないので、病院に運んだにちがいないと思い。 高鷲小学校へ行き病院を教えてもらう事にした。 「病院は人がごった返して無理なので、お寺を回って彼がいないか確認し居なければ助かっている。」と言ってお寺を教えてくれた。 
 お寺に入ると真っ暗な中遺体がびっしりと並んでいる、普通なら遺族がいっぱいいるはずなのに、一組だけろうそくを持って泣いておられる方がいた。 その家族の方たちも何処かに非難されているのだろう。 皆自分のことでいっぱいなのだ。
 

コメント : 0件 | トラックバック : 0件

17日 午前10時 
秀也君のことが気がかりで、会社の事は皆に任せて自宅に帰った。 電気は回復していたのでテレビを見ていると阪神高速神戸線が倒壊していることや、長田で火災が発生していること、死者が200名以上でたとか、ヘリコプターからの情報が流れている。 ただごとではないと思い吉川さんの長男に連絡をとるが通じず、ただ待っていても仕方がないので車で様子を見に行くことにした。
 午前11時頃自宅を出発。 六甲トンネルは無料(以後3ヶ月間)になっていた。 ループ式の高い陸橋を渡る時や崖の横を通過する時、いつ余震が起きるかと、いままでにない恐怖感をあじわったのを今も鮮明に覚えている。 ふもとの高羽の交差点の手前100mのところに道路を横切るように20センチの段差になっていてそこから町の様子が一変していて、倒壊している家や横の家にもたれかかっている家、道路をふさいでいる家、の連続。 車で秀也君近くまで何とか行き歩いてたどり着くと、木造のアパートは一階が倒壊して二階はかろうじて残っている状態、隣の真新しい鉄筋のマンションも一階の駐車場の柱が折れて傾いている。 呆然と立っている人に聞くと一階の人8人全員中に閉じ込められ、二階の人は全員外に放り出されたが、無事だったそうだ。後ろのマンションにも何人かいる、その先にも、・・・聞くとこの近く(約半径50m)だけで50名以上閉じ込められているらしい。 彼の名前を叫ぶがなんの返事もない。 テレビで死者200名と言っていたがそれどころではないなと直感で思った。
このままではだめだと、この近くの弟の会社(土木関係)にリフトを借りようと走るがわずか1キロで家族を助けようとする人、死亡者を畳に乗せて運び出す人、公的機関の姿は全くなく皆でなんとかしようと必死の姿ばかりでした。 弟の会社も半分運河に落ちそうな形でかろうじて残っていた。 
弟に事情を話すと六甲アイランドにリフトがあるので一緒にとりに行こうと六甲アイランドの橋の渡るが中央に20センチの幅で隙間があり思い切って通過しアイランドに着くが液状化現象で水びだし、無理と判断しすぐ引き返す。 その直後、六甲アイランドに行く橋は危険と通行止めになる。

コメント : 0件 | トラックバック : 0件

 午前8時。 電気がないのでどこでどうなっているか情報が判らず、息子(現当社専務)も会社に実習に行くため、ホンダクリオ神戸に電話するが連絡がつかず、私もホンダクリオ神戸の社長に連絡するが通じませんでした。(後で判ったのだが有野店、当社、ロイヤルモータースの向かい、以外すべての店が被害を受けていた。 そのためホンダ学園卒業後、息子は当社の向かい有野店に4年間在籍した。 )
 午前9時。 隣の吉川(仮名)さんが私の家に来て長田区にいる長男から連絡があり三男の秀也君(仮名)が灘区に住んでいて「彼の住んでいるアパートが倒壊しているが後で連絡するから家に待機するように。」と指示があったと言ってきた。
 秀也君は娘と同学年で娘の大学の同級生の啓子(仮名)さんと偶然付き合っていて一週間前に吉川さん宅で婚約祝いをしたところでした。
会社の始業時間がきているので会社に行くと三人出社していたが「すごかったなー」と話しながら後かたづけし幸い本社(有野)のライフラインは無事だったのでテレビでニュースを見るとヘリコプターからの情報だが山(六甲山)の向こう側はもっとひどい事になっているらしい。
 後で判った事だが出社していないT君は家が全壊して、数日後仮設住宅に入居した。
 半年前(平成6年7月)神戸市灘区岩屋、国道2号線と国道43号線の交差するところに「オートプラッツ神戸」中古車合同展示場を出店(他タックス店2社も出店)し車も売れていたので12月に1名増員し「1月からがんばろう」と言っていたところだったが、そのオートプッラツ神戸の店長が長田区に住んでいて全く連絡がつかない。 この事も後で判ったことだが、彼の家は全壊し2階に寝ていた奥さんとお子さんはゴルフクラブで壁を3つ壊し1階が潰れていたので道路に降りたがすぐ潰れた家が道路に横たわっていたので何件か乗り越えて非難したそうです。 直後の火事で1階に寝ていたおばあさんは助けることが出来なかった。 彼の周辺も同じような状況だったので悲しい場面や辛いことを経験したのでしょう。 2週間後に連絡がつき本人は無事であったが近くの学校に避難しているとのことで、一ヵ月後会社に出社したが、あの底抜けに明るい性格の彼が以後2ヶ月位全くの無口になっていた。 連絡がつくまで毎日、テレビで彼の名前(死亡名簿)が出ないことを祈りながら見ていました。

コメント : (x) | トラックバック : (x)

平成7年1月17日午前5時46分 (あとで分かる)
「これなにー」と叫ぶ家内の声が頭上から聞こえてビックリしてベットから立ち上がろうとするが、体がベットの上を滑って起き上がる事がで出来なかった。 おそらく相当の音がしていたはずなのだが、家が潰れるのではないかとゆう恐怖とトラックでも突っ込んできたのか何が何かさっぱり判らず、これが地震だと判ったのは、揺れが終わって1分位してからで息子と娘が部屋に来て娘は泣き息子は「すごかったなー」と。 階下に下りて、電気がつかず真っ暗な中進むと家内が「いたい」の叫び声、ライターで確認すると棚のお酒やグラスが割れて山になっているのを踏んだらしく、血が出ている。 応急措置をしてすぐ僕と家内の実家に無事かどうかの確認の電話(この後二、三日連絡とれず)をし安心していると、ガスの匂いがして恐怖心が走った。 火の元に気お付けて裏に出ると、薄明るくなっていて更にキツイ「ガス」の臭い。(後で判ったのだがこのような震災の時は元が自動的に閉まるらしいがガス管が切断されているのでやはり火に気を付け二次災害にならぬようにしなければならない)
 大阪狭山市のホンダ学園に行っていた息子が当日から一週間、ホンダクリオ神戸の本社にサービス実習に行く日ため家に帰っていたのでいっっしょに「このガスをすぐ止めてもらおう。」と家を出ようとしたとたん余震で最大の大きな揺れが発生。 こわごわ息子といっしょに有馬警察に駆け込んだら「山(六甲山)の向こうはもっとひどいらしい、火の元には気を付けて。」だけ、警察もそれどころではないらしい。 仕方なく会社の様子を見に行くとグチャクチャで水びだし、化粧台が落ちて蛇口にあたり開いた状態になっていた。(この教訓を生かし最近の蛇口は取っ手を下ろすと止まるようになっている。)
 有野川を境に様子が一変し西側に会社があり、まだましであったが東側は農家が全壊していたり有野台で車を走らせていると道路に割れ目が走り二十センチ位の段差が出来ていて「ガス」の臭いがたちこめて車で引火しないか恐怖心が走る。 薄暗いコンビに入り当面必要と思われるものを購入、もちろんレジは動かず店員も大わらわ、品が数もすでに半分以下になっていた。 

コメント : 0件 | トラックバック : 0件

中古車・中古車検索のタックス:買って,乗って,安心,誠実中古車:中古車・中古車検索のタックス